• Go to Japanese Page
claveciniste et pianofortiste

ヨーロッパ

皆様こんにちは。
蒸し暑い日が続いていますね。
昨日、調律師さんお勧めという1%ごとに湿度設定をして、自動調節してくれる除湿機が届きました!
早速使ってみると、なぜか温風が出てきます!
その為、冷房と除湿機と同時にかけないと、室内に居られない感じでね。
デリケートなチェンバロを管理するのに、最も難しい時期ともいえるのではないでしょうか。
このままでは、チェンバロにカビが生える~~~
≪チェンバロ救出作戦!≫
チェンバロの管理の為に、24時間空調管理をできるアパートを借りるか、隣の菜園に【チェンバロ小屋】でも建てようか~なんて案まで出ているほど悩まされる問題です。
どうにか秋まで乗り切ります!

さて、気が付くとあと4日でヨーロッパへ発ちます。
イタリア・トスカーナ1週間&パリ1週間=2週間になります。
ラファエルやパスカル、バカンスで居ない友達も多いのですが、恩師のユゲット・ドレフュス(82歳)にはお会いして、バッハやスカルラッテイを聞いて頂こうと思います。
こうして、パリから帰国して4月以来3カ月ぶりに行きますが、丁度よい距離感です。
近すぎず、遠すぎず、そして目的を持って短期間で行くのも良いと思います。

今は、日本での活動を中心に音楽教室やコンサートなどの企画を立ち上げ、広げていく事に重視しています。
来年の5月にはラファエルも再来日する為、また何か楽しい企画をしたいと思っております。
夏が終われば秋、コンサートの準備は半年前~1年前から動き始めても、時間が足りなくなることが多く、無駄のないオーガナイズも大事になります。
今は、音楽教室のサイトが完成し、ホームページを作っています。
が!
素人な私には、チンプンカンプン・・・
1から説明してくれているサイトを横に開いて、学んでいますが、
取りあえず必要な事柄は記載したので、近日中にUpし、8月に帰国後さらにデザインや機能などを改善したいと思います。
それでは、皆様も素晴らしい夏をお過ごしください。

バッハの旅 その3/Le voyage de Bach Nr.3

バッハの旅がそのまま・・・になっておりましたので。
Bach Museumの続きです。

バッハの楽譜に使用されている紙には、透かし模様が入っています。【月】
【MA】の文字
この透かしから、何年代にバッハが使用していた【紙】かを判明し、作曲年数を辿っていく1つの手がかりになります。
透かしの模様リスト
これが、実際に【紙】を作っていた機械(中に透かし模様が入っています)
各時代のバッハの音符や記号の違いからも作曲された年代を推測できる手がかりとないます。

カンタータの自筆譜
コラール・カンタータ” Was Gott tutt,das ist wohl getan” BWV99
1724年6月~1725年3月にかけて40曲のコラールカンタータを作曲し、バッハがこれ以上に制作した時期はないという説明。
通奏低音(Continuo/チェンバロやオルガン、チェロパート)

1735年1月30日初演されたカンタータ” War Gott nicht mit uns diese Zeit” BWV14
Altoパート
アップ画像
これはJ.S Bachの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハの自筆譜
Andante ma non troppo(歩く速さで、でも早すぎずに)のテンポ指示


バッハの家系図

J.S Bachは3人兄弟?だったんですね。

J.S Bachの子供達

バッハが住んでいた都市名(当時は、小さな村だった方が多いかも知れませんね)と年代。興味深いですね。

では、続きはパート4に続く・・・

バッハの旅 その2/Le voyage de Bach Nr.2

バッハのカフェに入りたいな~!という思いを後に、取りあえず博物館へ・・・
すると、2時間以上じっくり見れるほどの充実した内容でした。
そんなに大きな博物館ではないのですが、何しろバッハの自筆譜や有名な肖像画などが勢ぞろい!しているので、音楽家やバッハファンにはかけがえのない資料ですね。
それでは、一緒に見て行きましょう!
Originalという文字/このお部屋の物は全てOriginalということだそうです。
1747年にJ.Sバッハが音楽学術教会へ入会した際に提出したハウスマンにより【肖像画】
手元に持っている楽譜は6声の3重カノンです。
当時は、勿論今の様に証明写真もないので、画家さんに絵を描いて貰い、この手元に持っている無限カノンには、【数字】大好きなバッハからのメッセージがあります。

この音楽学術教会には、すでにヘンデル、テレマンというバッハも尊敬している音楽家が会員になっています。
大学の頃に有田正広先生の授業で、この3声無限カノンについて聞いた時は、本当に驚きました。
もう10年以上前の記憶なので、きちんと覚えていないかもしれませんが・・・
①1747年
この音符には、実は入会した【1747年】=1+7+4+7=19
確か2段目と3段目の音符を足すと19個の音符=入会年を音楽で表していたと思います。
バッハのpapa!やっぱり恰幅が良いですね。(笑)
②カノンの低音ライン=バスは、ゴルトベルク変奏曲にも使用されているシンプルな低音ですが、もともとはテレマンがよく用いた典型的なラインで、14代目に入会するバッハとしては、13代目に入会た【テレマン】を尊敬しているという意味で、彼を象徴するバスラインをここに使用したということです。

③バッハの名前=14&41アルファベットをAから順番に1,2,3と数えていくと、
B=2
A=1
C=3
H=8
BACH=14
になります。
J.S BACHを足すと41 になります。
ラテン語ではI=Jは同じとされていたので、J=9になります。
ということは、14も41もバッハの名前を象徴するシンメトリックな数字です。
ということで、曲の中に出てくるカノンが14回だったり、41回であることはしょっちゅう。
でも、聞いている人にはほとんど分からない楽譜の裏のメッセージ。

果たして、どうしてこの様な数字のメッセージをバッハは作曲の中に織り込んだのでしょうか・・・
有田先生曰く、敬虔なプロテスタントであったバッハは、
自分の音楽を全て神へ捧げていたのではないか
だから、聞く人には分からなくても、自分と神の間には、常に絶対的な忠誠を近い、カンタータやミサ、受難曲を教会の為に作曲したのではないだろうか・・・
この推測は、なるほど・・・と思えるものでした。
この赤い丸の部分は、次ページの音符です。バッハもめくれるタイミングでない場合は、【あんちょこ】みたいにちょっと楽譜の隅に書いていたんですね。今は、みんな縮小コピーして貼ったりしますね(笑)
この肖像画の話を聞いた頃は、大学の試験やコンクールで必ず課題にあるバッハの音楽が、実はそんなに深淵なものだったとは・・・
と強い印象を受けました。
そんなこともあり、ただ器用に上手にバッハをピアノで弾くというよりも、できるだけバッハの目指した音楽に近ずきたい・・・と古楽に興味を持ち始めたのもこんなきっかけだったかも知れませんね。
Continuo(通奏低音)パート
ゴルトベルク変奏曲が書かれたのも1741
そして、1975年にフランスのストラスブールで見つかった初版譜の最後のページにバッハ自身が書いた【14のカノン】が見つかり、今はパリのBibiliotheque national(国立図書館)に保存されています。
変奏曲の最後に14のカノン=BACHのカノンによってバッハがサインしたとも考えられるという論文を昔アメリカで修士論文の研究をしている時に読んだ気がします。粋ですね。
しかし、このカノンは筆跡鑑定などから晩年の【音楽の捧げもの】を書かれた1747-48年だろうということです。
さて、まだ博物館へ入って5分位の内容で随分長くなってしまったので、次回へ・・・

バッハの旅 その1/Le voyage de Bach Nr.1

11月にバッハのゆかりの土地、Leipzigへ行ってきました。
Upするのが遅れていたので、バッハの旅を遅れながら載せます。
LeipzigのThomas Kirche【トーマス教会】の銅像
これまでに、何人の音楽家とバッハファンから世界中から訪れたことでしょう?
同じ町Leipzigに住んでいたメンデルスゾーンのステンドグラスがあります。
忘れ去られたバッハの名曲を死後100年経って初めてマタイ受難曲を初演したり、メンデルスゾーンのお陰で世界中がバッハの名曲を再発掘したので、彼の功績は大きいですね。

その右となりにパパバッハ!子供が20人くらい?も居たということで、私はいつのまにかPapa バッハと呼んでおります。

トーマス教会のオルガン
中央にバッハが眠っています!
Bach キャンドルでお参り!


バッハワイン!
トーマス教会の前に最近リニューアルしたばかりのBach博物館があります。

中庭の左にBach Archivがあります。バッハの出版に関する膨大な資料があります。
中に入るとBachカフェが!
オシャレですね。
さて、博物館はどんな感じでしょうか?

湯河原~つばき~/Tsubaki a Yugawara

今日も寒い日が続いていますが、快晴ですね。
ボストンも、毎年11月~3月までマイナス15度まで下がる凍てつく寒さでしたが、快晴とチャールズ川が見える景色は、心が晴れ晴れとする感じで、よくボストンーパリで一緒だった友人と、マイルド(あまり寒くない)だけどグレーなパリのお天気 VS 恐ろしく寒いけど快晴のボストンとどちらがいい?
と究極も選択を話したことが何回かありました。

日本は・・・その空間くらいで丁度良いでしょうか。
さて、もう10日ほど前になりますが親戚と一緒に温泉旅行へ行ってきました。

熱海の海。寒い中サーファーが数十人居て、相当好きなんだろうな・・・と。
お部屋に着くと、こんな素敵なお着物が迎えてくれます

ゆっくりお茶を頂き、内風呂へ入りました
檜のお風呂から日本庭園が見えます


お正月らしい素晴らしいお夕食でした。
お品書きだけで、びろびろ~~っと長くて、達筆・・・
お恥ずかしいですが、中には読めない魚?も居て、みんなでクイズ状態になっていました・・・
2段のお重を開けるとこんなに綺麗な器が!
透明なのに素晴らしい深みのあるだしでした。果たして日本料理のシェフになるには何年かかるのだろう?
こんな味は絶対に出せない・・・と一口一口美味しく味わいながら頂きました。
こんな新鮮なお刺身は久しぶりでした。
手で描かれた素晴らしい器と漆器。芸術品ですね。
88歳の祖母の手術が成功した快気祝いということで左に上品なお赤飯が用意されています。
美味しいお料理に話が弾み、長唄を長年やっているおばあちゃんに歌って~とみんなで盛り上げると・・・
何を歌おうか?と考えている祖母に何と急に50年前の記憶?で父が急に”勧進帳”を歌い始め、母も私も初めて聞いて口が開いたまま。
おばあちゃんが暗記していなかったので二人で歌って楽しそうでした。
というか、どっから出てくるの?という感じ。
私は、全く記憶力がだめなのですが、父はどうしてか英語の文法、フランス語の発音、ドイツ語のダルムシュタットの方言・・・など数十年昔の記憶がそのままインプットされていて、ドラエモンのポケットみたいに出てくるみたいです。
ので、勧進帳も中学の頃におばあちゃんが練習していた謡回しなどそのままメロデイーとして入っていたようです。そして、人前で全然上がらないタイプ。私は、やっぱり舞台でも緊張しますが。
長所はなぜか受け継がず・・
他のほっぺ赤い(中学校のあだ名:アンパンマン&おかめ納豆手足、胴体、首短い!!・・・というどうでも良い部分ばかり似ているんですけど・・・
子供は遺伝内容を選べないんでしょうかね!?
このお漬物とご飯だけでいいよね!と言ってしまったほど美味しかったバラエテイーに富んだお漬物の味。忘れられません。

あまりに品数が多くて、しばらく”とど”の様に胃がパンパンでしたが・・・
やっぱりまたお風呂!
そして、朝風呂。誰もいなかったのでパチリ。

露天風呂は新鮮な空気と共にポカポカと暖まれていいですね。
温泉に入るお猿さんの気分が分かるわ~~って!?

目の前に広がるのはこんな雄大な景色で四季おりおり紅葉などで変化するそうです。

【おまけ】

こんな看板が・・・これを書いた方、なかなかジョークのセンスがある?
それとも本当にこういう内容なんでしょうか。

エズ/Eze

皆様こんばんは。
今日は、すかっとした快晴!と思いきや本格的な寒さになりました。
それでも、ヨーロッパの石造りの心身ともに底冷えする朝霧の中の寒さからすると、まだ【耐えられる】寒さではないかと思います。
さて、熱海の海を見て思い出した・・・
南仏ニースから車で30分くらいの場所にある、岸壁に建てられた中世の町Eze(エズ)をご紹介したいと思います。

一生に1度は行ってみたい!!と願っていた地中海の絶景の見える素敵な街です。
思いがけずフランスとイタリアの国境のMentonモントン近くに住む親しくさせて頂いている方を訪ねた際に、ドライブで連れてって頂き忘れられない思い出となりました。
こんな素敵な風景を見てカフェやアぺリティフを頂けます。
フランスの高級シャトーホテルはRelais Chateauという系列でランク付けされていますが、このホテルもその1つのChateau de la chevre d’or(金色の山羊のシャトー)です。

リンクはこちらよりどうぞ。ホテルに泊まって居なくてもランチやカフェだけに立ち寄ることができます。


まだ知らない方、もうご存知の方、もう行かれた方、是非機会があればお勧めスポットです。

エメラルドグリーンの地中海を眼下に★付きミシュランのレストランのあるホテルがあります。




このホテルは有名のようですが、パリ市内のホテルに比べたらリーズナブルで、お部屋も大きくてゴージャスというより、可愛らしい中世のおとぎの町に迷い込んだような・・・そんな時間を過ごせる魅力があるかもしれません。


Ezeの地図です。中世の都市Cite Medievalと書かれていますね。
南仏のハーブや香辛料も青空市場の様に売っていました。そんな気楽さがいいですね。
一時の夢心地を味わい、車で移動中に先ほど居たEzeの町が【天空の城ラピュタ】の映画みたいに見えました。

Villefranche sur Merという街にエズから車で30分くらいで到着し、16世紀のチャペルをジャン・コクトーが内装のフレスコ画を描いたことで有名なChapelle Saint-Pierreへ立ち寄りました。
パリ・オランジュリー美術館の360度モネの【睡蓮】で囲まれるように、チャペルなど天井からコクトーの世界に包まれるようでとても素敵でした。
ニース近辺には、その他ピカソ、マティス、セザンヌ等のアトリエ・住居等がそのまま美術館になっている場所があり、ドライブをしながら訪れるのは最高ですね。
なるほど画家たちが【光】を求めて南下し、豊かな自然と海を描くために地中海にたどり着いたのはうなずけますね。

オランダ・ドイツの旅/Le voyage en Hollande et Allemagne

皆様こんにちは。いかがお過ごしですか。
昨晩1週間の旅行を経て無事にパリへ戻りました。
旅行1-2日目オランダ(アムステルダム、ハーグ)アムステルダムといえば自転車王国!
2年間通った旧アムステルダム音楽院。今は、中央駅近くに移転しています。
今回の度は、懐かしいお世話になったアムスの先生、友達との嬉しい再会とドイツのバッハを中心とした作曲家の旅をし、ライプツィッヒとベルリンの楽器博物館も思いがけず大変充実していて、素晴らしい旅行でした。
高校時代からの旧友が2人ともオランダで無事に男の子を出産したので、会いに行きました。オランダはほとんどが自宅出産で助産婦さんが交代で家に来てくれるシステムなんだそうです。
男の子を産んでお客様が来た時に出すというの伝統がこの可愛らしいお菓子。かりかりの焼いてあるパンにバターを塗って、ブルーのお砂糖がのっています。女の子はピンク。
3日目アムステルダムーベルリン(2時間飛び1泊)翌朝ポツダムへ(電車1時間)
ベルリンの空港を降りて、顔の肌に冷っとした感じがマイナス?という感じ。
実際、3日間の移動中、3日目は最低気温マイナス2度、最高気温6度という寒さ。
なのに、ニュースの天気予報ではパリは最高気温15度。え~~?そんなに違うの?
ということで、普通のコートでは寒い、寒い!という感じで帽子と買って赤ずきんみたいに耳まですっぽり隠して、寒い限界!になるとカフェで暖まったり、スープを食べたりして暖まりました。
不思議なのは、ドイツは同じヨーロッパでもパリやロンドンより気温が約10度も低く、かなり冷え込んでいて、びっくりしました。
C.P.Eバッハが30年も働いていたポツダム・サン・スーシー宮殿C.P.E バッハが弾いていた&J.S バッハも弾いたであろうジルバーマンのチェンバロも見れてとても良かったです。
久しぶりに10代の頃の様に『未開の地』を初めて歩くというフレッシュな旅行で、ロンドンから合流した旧友と一緒にあちこち歩いてドイツ名物のソーセージを食べたり、楽しみました。

写真は、ベルリンの楽器博物館で撮って良いということで、撮りまくっていたら電池切れ・・・でベルリンの風景は残念ながらあまりないですが、ルッカースFamilyのチェンバロがあったので、デテールも撮ってきました。少しずつUpしてきます。
4日目ポツダムーライプツィッヒで半日観光(電車で1時間)ー夜ワイマールへ(電車で1時間)
『トーマス教会』
バッハが働いていたライプツィッヒのトーマス教会
ステンドグラスに有名なバッハの肖像が!
トーマス教会内。ここで毎週末バッハの書いたカンタータが演奏されていました。バッハが多くの時間を過ごしたかと思うと、何だか親近感が湧きました。

バッハが眠っています。ゴルドベルクのお礼参りができて良かったです。
『バッハ博物館』
教会前にあるバッハ博物館。オリジナルの肖像がと自筆譜が展示されていました。
自筆譜のヴィオラパート
Upして見ると・・・
これは、コピーですが、譜めくりの為、次のページがメモ的に赤い●の中に書いてあります。みんなやることですが、バッハもしていたんですね(笑)
『メンデルスゾーン博物館』
メンデルスゾーンの肖像画。品の良いお坊ちゃんという感じですね。現実、作曲家の中でも最も裕福だったと言われています。別荘に行っていた際には、毎朝決まった時間にお庭で朝食を食べ、絵画のデッサンをしたりしていたそうです。
ライプツィッヒにあるメンデルスゾーンの家だった博物館。今もサロンコンサートが行われるようです。
バッハと同じライプツィッヒに住んだメンデルスゾーンが、バッハの偉大さを称え、初めてマタイ受難曲を上演して忘れかけていてバッハの音楽を再度復興したことでも知られています。
メンデルスゾーンのピアノ
1848 Traugott Berndt
1828/30 Johann Nepomuk Trondlin
絵画もとても上手だった多彩なメンデルスゾーン。スイスの風景がが多くありました。
メンデルスゾーンの手
メンデルスゾーンの亡くなった際のDeth masqueと絵
『ライプツィッヒ楽器博物館』
メンデルスゾーンハウスから徒歩4分くらいの所にある大学の?博物館ですが、充実したコレクションで驚きました。ハースのクラヴィコード、フォルテピアノを初めて発明したクリストフォーリのチェンバロ2台(真っ赤なシノワズリの装飾された別ケース付き)、シュタインのフォルテピアノ、などなど。
5日目ワイマール半日観光ーベルリンへ(電車で2時間)
『リスト博物館』リストの肖像画とBruthnerのピアノ

ポツダム:ゴージャスなリストの家(現在はリスト博物館)
ポツダムの博物館宣伝の車にリストの顔が!『Follow me!』と書いてあります。
ゲーテの家(現在の博物館)横にある、ゲーテやシラ―も通ったというレストラン。ジャーマンっぽいですね~。
ロンドンから合流した旧友は高校から一緒の20年来の分かりあった友達、ピアニストだったので、作曲家やゲーテ、宮殿など訪れたい興味が一緒だったので、とても楽しい3日間&彼女のお陰で1人旅だとどこかで構えて緊張するのも、地図を持たずにぷらぷら歩ける気分でナビゲーターをして貰い、ありがたかったです。
ワイマールをお散歩していたら、可愛いレストランの看板の隣に?バッハ・・・何とかと書いてある。
良く見たら、C.P.Eバッハとフリーデマン・バッハが産まれ、1707-1718年まで住んでいた場所・・・と!そうか。バッハはワイマールにも住んでいたんだっけ。

また、歩いているとこんな素敵な紅葉のお家がありました。
ここにもプレートが。よく見ると、マルテイン・ルターが1518年に住んでいた家と。これまたビックリ!
みんなご近所さんだったんですね。バッハとルターは200年の差がありますが、プロテスタントだったバッハは敬意を払っていたでしょう。
リスト、ゲーテ、シラーの家も全て徒歩10分くらいの中に全てあり、半日で回れてとても良かったです。また、ベルリン、ポツダム、ライプツィッヒ、ワイマールはそれぞれ電車で1時間ずつ位なので、昔の馬車で移動しても1-3日で着いたでしょうに、バッハの本でただ読む地名でなく、実際に訪れて地理関係が分かり納得がいきました。
6日目ベルリン半日観光ー夜パリへ(飛行で2時間)

『ベルリンの壁』
最後にベルリンはまた戻り、夜の飛行機まで半日観光。ベルリンの壁がまだポツダム広場に残っています。
『ベルリン楽器博物館』
ベルリンのソニービル(ポツダム広場)の裏にある楽器博物館へ。

入るとこんなにある!なぬ~。一気にハイテンションになりましたね。
1618年Andreas RUckers
チェンバロではハンス・ルッカース、ヨハネス・ルッカース、アンドレアス・ルッカース、フォルテ、クラヴィコートでは、ハース、ピアノではシュタイン、ワルター、W.F.バッハが使っていた?チェンバロも展示してあり、弾けませんでしたがかなり面白かったです。
天使にA.Rのイニシャル


後ろは、こんな珍しい装飾
1594年Hans Ruckers親子Virginal

踊ってる人を見たのは初めて!
逆立ちしちゃってるし・・・

ドイツに乾杯!
久しぶりに自宅に戻りほっと一息、洗濯をし、明日からは北フランスへ5日間チェロのラファエル&パスカル夫婦とリハーサル、コンサート、子供への分かりやすく教える授業、マスタークラスなどをしてきます
バッハの録音後1週間パリで休んだつもりでしたが、どどどっと疲れが旅行中に出てきて、毎日の移動もあり、かなり消耗しているのでは?ということで、今日はマッサージに行って休んできます。

オランダードイツの旅・Le voyage en Holland et en Allemagne

皆様こんにちは。
最近のパリは、グレー&Grey(英)&Grie(仏)です。
だんだん、滅入ってきそうですね~。
お天気がこんなに人のメンタリテイーや気性に影響を及ぼすとは、ヨーロッパに住むまで感じませんでしたが、やはり10月―4月まで半年間ずっとぐれ~の日の短い日々は籠りますね!
練習するには良いかもしれませんが、録音終了後、バッハは弾いてません!(笑)
さて、良い気分転換に?
1週間旅行をすることにしました。
高校時代からの親友のピアニストがロンドンに10年以上住んでいて、たまにロンドンやパリ、帰国時に懐かしい同級生で会っていたのですが、久しぶりに2人で
“実は全然知らない・・・『ドイツ』を旅しようではないか!?
ということで3泊4日でベルリンーポツダム(バッハの二男カール・フィリップが仕えた宮殿)ーライプツィッヒ(バッハのトーマス教会など)ーワイマール(リストの家、ゲーテの家など)ーベルリンを周るという強行突破!
でも、意外や意外、電車を調べると近いんですね。
どこも1-2時間で行けて、ワイマールーベルリンだけ3時間弱です。パリーベルリンは2時間。ロンドンからも2時間ちょっと。
ということで、別々にベルリンまで飛んでゲートで待ち合わせ。
果たして合えるのでしょうか?デンジャラスですね。
2人とも怪しいというかほとんど話せないドイツ語でサバイバルです。
何だか久しぶりにこういう旅(若い18歳の頃にする様な)初めていく場所ばかりで楽しみです。
そして、その前に私は是非帰国前に行きたいと思っていたアムステルダムに久しぶりに行ってきます。2,3年行っていないでしょうか。あの運河の可愛い景色がなつかしいですね。
勿論、お世話になったメノにも会いますが、何といっても2人のフォルテピアノのお友達が赤ちゃんを最近産んで元気に頑張っているので、一目赤ちゃんにも会いたい!ということで、2泊3日の短い時間ですが、とてもウキウキしています。
高速列車のThalysも最近パリーアムスは何と3時間15分くらいで早くなり、近くなりましたね。
日本の新幹線の方があまり乗ったことなく、ゴールデンWeekに名古屋の友達宅へ行くのに、あまりに混んでいた為、空いている”こだま”に乗って初めて“各駅停車”と気が付き、1時間も遅く到着・・・
こっちの高速列車は各駅、急行みたいなのはあまりないので、直行くらいですかね。もっとシンプルです。逆に日本の方が進んでいてついて行けてませんでしたね。お恥ずかしい。

クロ・リュセ城ダ・ヴィンチ宅/Le Clos Luce

ロワールのアンボワ‐ズ城から400メートルのところにレオナルド・ダ・ヴィンチが人生の最晩年の3年間を過ごしたクロ・リュセ城があり、美術館として公開されています。

今回、アンボワ‐ズ城、シャンボール城、シュノンソー城とこのクロ リュセ城を見ましたが、一番このリュセ城がプライベートな感じで印象深い素敵な場所だと思いました。

機会のある方には是非お勧めです。

12世紀の基礎の上に国王ルイ11世の旧仕長のエチエンヌ・ルルーにより1471年に建設されました。この八角形の塔は15世紀の建築の特徴で、1516年より3年間ダ・ヴィンチが住みました。
フランソワ一世は、ダ・ヴィンチの才能を『王の最高の画家、建築家、エンジニア』に指名してフランスに招いた際に、ダ・ヴィンチが唯一フランスへ持ち込んだのが『モナ・リザ』であったことから、今もルーブル美術館でフランス所蔵になっています。

このルネッサンス様式の大広間でダ・ヴィンチがフランソワ一世や芸術家を迎えたお部屋です。
国王シャルル8世が“3500エキュ金貨でクロ・リュセの所有者となった売渡証書のオリジナルが展示されています。


ダ・ヴィンチの寝室。ここで1519年4月23日に遺言を書き、手稿やデッサンを最も信頼していた弟子フランチェスコ・メルツィへ捧げました。

ここで1519年教会の秘蹟を受け67歳で亡くなりました。フランソワ一世がその最後に立ち会ったという言い伝えは多くの画家にインスピレーションを与え今もベットの横に絵が飾ってあります。
アンヌ・ド・ブルターニュの小礼拝堂
15世紀末にシャルル8世により、妻のアンヌ・ド・ブルターニュの為に建てられました。幼い子供たちを亡くしたアンヌの悲しみの為にダ・ヴィンチの弟子たちがアトリエで4つのフレスコ画を描かれ、その中にフランチェスコ・メルツィもいたとされる。

描かれている光の聖母『ヴィルコ・ルシス』は『リュセ』の語源とされています。

地下に展示されているダ・ヴィンチの発明品の数々。
史上初の戦車、自転車、旋回橋、水力学、外車千、飛行機の元祖ともいえる空飛ぶ機械、ヘリコプターが展示されています。


何と、アンボワ‐ズ城からこのリュセ城への秘密の地下通路があり、フランソワ一世はしばしばダ・ヴィンチに会う為にこの通路を使っていたそうです!私は残念ながら通路入口があると知らずに見逃してしまいました!
お城を見て外に出ると『ルネッサンス テラス』という素敵な名前のお庭でカフェができます。
ばらのつたうお土産ショップ。ばらの季節にはきれいでしょう。

お庭の道しるべも可愛いですね。広大なお庭にはダ・ヴィンチの発明した作品の大きな模型があちこちに設置され、楽しくお散歩できるようになっています。お時間のある場合はお勧めです。私はあいにく1日で4か所を回るツアーで50分しか無かった為回れませんでしたが、その後アンボワ‐ズで絶景のロワール河とお城を眺めながらおにぎり弁当を食べ最高でした!
ダ・ヴィンチの眠るアンボワ‐ズ城にあるサン・テュベール礼拝堂。ステンドグラスの光がとても綺麗です。
狩人の守護聖人を捧げられルイ11世時代に建設が始められ、シャルル8世時代に完成しました。

今でも静かにロワールの高台でダ・ビンチで静かに眠っています。

ロワールお城巡り①アンボワ‐ズ城/Le chateaux d’Amboise

皆さまこんにちは。
さて、先週は私もよく知らなかったロワールに2泊3日で旅行をしてきました。
パリートゥール(Tours)まで
パリ、モンパルナス駅から1時間!早いし電車も2200円とTGVなのにお得です。パリに飽きてうろうろするより、とてもお薦め。
朝8時の電車に乗り、9時到着。駅前のLe Grand Hotelを予約していたら、本当に駅から見えて荷物を置いてそのまま観光局へ。(徒歩2分)そこから、有名なロワール川にあるシャトー巡りのミニバスが4,5社出ています。
アンボワ‐ズ城のお庭とロワール川。レオナルド・ダ・ヴィンチが最晩年の3年間を過ごしたアンボワ‐ズ城。
アンボワ‐ズ城を降りたところにある可愛いカフェで一息。美味しいカフェオレでした!
そして、周りからはドイツ語ばかりが聞こえてきて、観光客が多いのだな~と。

前日夜にToursのオフィシャルサイトから行きたいお城のツアーを選んでメールで申し込み。きちんと名前、ツアーもメモしてくれたので、問題ありませんでした。
朝9時半ー夜7時半までドライブは全てお任せして1人50ユーロ。
レンタカーして運転できる人が居る場合は、勿論その方が自分のペースで巡れますが、運転が心配、女性のみの場合はミニバスは半日、前日コ―スあり、とても便利です。
ロワール川には何と3500ものお城があるそうで、15世紀まで(ガイドがそう言っていた様な)中世の頃はパリでなくトウールがフランスの年だったそうです。
この小さなチャペルにダヴィンチが眠っています。

『アンボワ‐ズの歴史』
もともとケルト人のトウロネス族の主要都市でこのトウ―レーヌ地方もこの部族の名に由来しています。今ではTours(トウールの街名ですね)1214年ヴァロワ家・フランス国王フィリップ・オ―ギュストが支配下に置き1422年シャルル7世が即位、息子のシャルルはアンボワ‐ズ城で産まれ、王妃と共に居住する。ルイ11世(1423-1461年)が礼拝堂を建てる。
フランス王家の領土だったことから、お城の入口からステンドグラスにまでフランス王家の紋章である『ユリの花』があちこちにモチーフとして散りばめられています。
アンボワ‐ズ城のお庭でおにぎりを食べていたら、何とクラシックカーが10台位来て花嫁さん達が!降りてビックリ全員中国人!シャッターチャンスを待っていた観光客もブランドの花嫁さんを期待したら、何とみんなアジア人。
コスチュームを着ている王様たち?暑いのか木陰で休んでます。(笑)
凄いですね。月1-2回中国から結婚式ツアーがあるそうで、中世の衣装と音楽をお庭に流して行われます。
とっても素敵な雰囲気でしたよ。バブルの頃はきっとみんな日本人だったろうに・・・と思いましたが。

一番のお気に入りの方達とパチリ。チェンバロのコンサートで踊って頂きたいものです。(笑)
本当に素晴らしい眺めですね。時期によってはこの穏やかなロワール川が氾濫したこともあったそうです。
アンボワーズ城
この写真の一番奥にダ・ヴィンチの住んでいた可愛いお城があります。
アンボワ‐ズ城内のエラールのピアノ

アンボワ‐ズ城とロワール川

Blog archives

Latest blog entries

Kay Music Academy