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claveciniste et pianofortiste

とんでもないこと/N’importe quoi

先週末のコンサートの為にアルルへ出発する前日にとんでもないことが起きた。

オーケストラのマネージャーの連絡ミスでバッハのブランデンブルグ協奏曲の第5番のソロをてっきり弾かないと思っていた私がソリストだった・・・
というありそうでなさそうな・・・なさそうでありそうなことが起きた。
半年前から南仏アルルと2日後の大西洋にあるLa Rochelleという町のコンサートはソロを弾くのことになっていたのだが、2週間前に偶然、オーケストラのオフィシャルWebsiteを見たらソリストの名前が他のチェンバリストになっていた。

すぐにマネージャに確認のメールをすると、”いや~~けいが弾くはずだけど、もう1度確認して返事をする”というメールが来た。
すると、その返事がなしに今回のコンサートの詳細メールが演奏する人たち全員へメールで送られ、詳細を見るとやはりソリストは私の名前でなかった。
ので、勝手にソリストを確認なしで変更するのもとても失礼だなと思いながらも、ここはフランス。
こんなことも平気でしてしまうのか?!・・・・と半ば冷ややかな目で見ていた。
ここで、フランス人なら
”何なのよ===!!私がソロって言ったじゃな==い!”と爆発+文句を言うのが普通らしいですが。
しかし、なんか気分が悪くも私はそこまでしゃしゃり出る気がなかった。
そんな中マネージャーからの確認を待っていたけれど結局何の連絡も直接なかった。

コンサートのあるアルルへ行く前日に他のメンバーと室内楽のリハーサルをしてて、その話になり、あのマネージャーは間違いだらけだから、絶対に再確認をした方がいい。
”もし、けいがソロを弾くのだったら、大変な目に合うのはあなたでしょ!!”と親切な友達なだけに絶対に連絡をしろ!と言われた。
そして、すぐに電話。出ないので留守電にメッセージを入れる。
帰宅後にもう1度電話をすると、あっさりと何事もなかったように、
”明日ソロを弾くのはけいだよ!前にも言ったでしょ。”
と普通に言う。
ありえない・・・こんなことが。
どうやらメールもWebサイトも別のアシスタントが何も知らないで情報を載せていた為に連絡ミスになったらしい。
しかし、そのアシスタントも私も出発前日まで私がソロを弾くというのを知らなかった・・・というのはありえない状況である。
しかも、チェンバロの協奏曲で一番難しいのでは?というこんな大曲、数時間でどうにかなるものではない。
幸い9月から少しずつ練習していたにしても急に明日弾いてね。と言われて顔色1つ変えずにできるチェンバリストは相当のプロである。
すでに、何回も弾いていれば問題ないが、私はまだ2回目だ。
初めて弾いた時に共演したフルーテイストは今回で25回目~~と言っていたが、バッハの自筆譜のとてもでないけれど本番では読めないような小さな楽譜なのだが、要するに全てのパートを把握しきっているので、そんなことができるわけで理想である。

こんなに大事なコンサートのソロを弾く、弾かない、弾く、弾かない・・・で結局 弾くことになるなんて。
思わず、叫んでしまったが結局責任を取るのは私だ。
舞台の上できちんと演奏をしないといけないのは音楽家である。
ということで、急いでどうにか3時間最後の仕上げの練習をしたものの、心配で明け方まで緊張で眠れなかった。翌朝アルルへ。
今回のコンサートプログラムはバッハと現代曲が半分ずつ、現代曲はCD用の録音も兼ねていた為そっちが重要視でバッハはさらっと1回通して終わり。
しかも2楽章は後でソリスト3人(チェンバロ、フルート、ヴァイオリン)でやっておいて。と指揮者。
はい。と言って予定を決めひとまずホテルへ行って仮眠。
前日急な変更に心の準備が整わずに3,4時間しか眠れなかったのでリハーサル後の1時間半のお昼寝はとても深く寝れて助かった。

他のメンバーが現代曲を録音後に練習をさせてもらいホテルへ戻ろうとした時に友人がうっかりスーツケースを教会に置きっぱなしにしていたので、運ぶことに。
すると、後ろから5歳くらいの女の子とお父さんが階段を上がってきた。荷物を持っている私を見て
”持ちましょうか?”とお父さんが話しかけてきて運んでくれた。
そして、ありがとうございます。とお礼を言って別れると歩き出したそのおじさんが、ふと思い出したように足を止めて振り返り
”あなたに幸運が来ますように” (Pour te bonheur) と言って肩にかついでいたビニール袋から人握りの塩を私の手のひらにくれた。
自然の岩塩らしく、”ここから23キロ離れたカマルグ地方のだよ” と言って握手をしてくれたが、その手はごつごつとして働き続けた人の手・・・というのがすぐに分かった。
女の子と一緒に歩いて行った。女の子は黒い髪をしたアジア人がめずらしかったのか、見上げていたけれど、最後は親しげに手をふってくれた。

その場所はあの有名なゴッホが描いたアルルの町をローマ時代から流れている川の上の橋で風がビュービューと吹いていた。
何だかそれまでの緊張した1日半の疲れがふわっと癒されたような感じがした。
こんな田舎で外国人の私にくれたやさしさにとても感謝した。
それまですっかり忘れていたが、10年以上前に片言のフランス語でゴッホがとても好きだった頃初めてアルルへ来た時の事を思い出した。
朝のマルシェ(青空市場)を歩いていると、新鮮な野菜やぶどうがあり、私は大きなブドウでなく小さな1人分くらいの房があるか見ていた。
開店前の準備をしていたお店の人がちょうど良い大きさのブドウを手の上にくれた。
お金は?と聞くと
”いらないわよ。” としぐさで分かった。
その時に、1人旅の言葉も分からず遠い異国に来ていた私の心細さをその人のやさしさが包んでくれたような気がした。

このお塩をもらって、そのぶどうを貰った時の事を思い出した。
その日はさすがに疲れ過ぎていて眠れた。
翌朝7時に起きて9時にはコンサート会場の教会へ。リハーサルは朝9時半ー10時まで。10時会場で11時からコンサートという具合で全然指ならしの時間もない。
しかも、教会で練習室や控室もあまりない為、私が15分練習させてもらった後、舞台ではチェンバロ、ピアノ、打楽器の3人が同時に音を出していて、すごいことになっていた。
さらっとゲネプロでテンポのチェックをして、チェンバロの調律師さんが調律を始める。時間がなくしょうがなく会場と同時に調律を始めるのでやはり雑音なので少し大変そうだった。
上の絵に描かれている”黄色いカフェ”は今でもあります。
ステージには現代曲の打楽器が多いのでソリストのチェンバロ、フルート、ヴァイオリンだけが舞台に立ち、オーケストラのメンバーは客席と同じ舞台下である。
何だか、すごい目立ってしまう配置だが、音響的にもその方が良かったらしい。ということで、どうにか本番は1日半の最短時間の用意・仕上げ・心の準備としては、あれ以上は弾けなかったと思う。
でも、最高の出来とは言えない。
普段はミスをしないカデンツァも数か所ミスをしてしまった。
その要因は極度の緊張から体が強張って、手に無意識にすごい力が入っていたようだ。
ローマ時代、紀元前から残っているアルルの野外円形劇場
自分ではどうして普段さらっと弾けるパッセージが弾きにくいのか?
ミスがあったのか?と思っていたが、
本番終了後にチェンバロの製作者が弾くと知らされたのが前日というのを知った上で、”あれ以上はベストは尽くせないでしょ。でもすごい力入ってたね。”と教えてくれたからだ。
はっと気がついた。叩いていたんだ~~~。
チェンバロは本当に指先以外の力はいらない。
それを緊張している普通の状態でないときにも脱力した状態で繊細なタッチで弾くのが一番難しい。
力が入ると普段問題なくさらっと弾けるパッセージも何となく”頑張ってしまう”
その頑張りが不必要なのだが、気負いからきてしまったようで反省。
この本番を録音したので、早速パリに戻り聞いてミスした部分を全部チェックしてゆっくり練習。
そして、自分が緊張した時に出やすい癖を冷静に見る。
明後日2回目のコンサートだが、やはりリハーサルは45分しかない。多分1回さらっと通して終わりだと思う。
その為、自分の中でテンポ、力の抜き加減、など準備していないといけない。
限られた時間の中で本番にいかに集中して力を出せるかもコントロールしなくてはいけない。
あんまりリハーサルで100%頑張りすぎると疲れが出てしまう。
などなど。

余談だが、日本からパリに訪れていた親戚曰く、”頭からっぽ”が一番いいわよ。と。
楽だそうだ。
いいな~~。
本当に彼女は時差関係なく、全て本能や感覚に従って、それを疑わずに自然に従って、すっきりとしている。
ということで、私も色々とぐちゃぐちゃと考えていたが、弾くべき時には弾かないといけないわけで、今さらぐちゃぐちゃ考えたり練習してもあまり変化はないのかもしれない。
それよりも、もう腹をくくって、よし。と呼吸を落として本番に臨むのが一番でないか・・と思うようになった。
自分を信じるというのは中々大変というか、すぐに不安になれるのだが、こういう大事な本番では、本当に信じ切らないと一瞬の隙が命取りになる。
なぜか、取りとめなく書いてしまったけれど、今日この頃の心境。
きっと後で読んだら、相当追いつめられてたな・・・なんて思うのかもしれないけど。(苦笑)
でも、アルルで演奏をさせて貰えたのは今から考えるとありがたいことだったのか・・と思うけれど、とてもでないけれど楽しめる余裕はどこにもなかった・・・
まだまだ修行は続くという感じでしょうか。
ゴッホが南仏に行った時人絵具を買うお金すらなくて弟のテオの支援を受けながらも、1日に3枚くらいのもの凄い早いペースで制作していたそうです。そして孤独の中で自分の絵を見つめながら唯一売れたのは生涯に1枚・1万円くらいで貧乏で苦労したようですが、その100年後に世界中から認められているなんてきっとゴッホは思いもしなかったのではないでしょうか。

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