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claveciniste et pianofortiste

Exposition de fp/フォルテピアノ展示会

街もゆっくりお散歩した所ですぐに3台の1840年代のピアノによりコンサートがありました。
スイスのピアニストJean-Jacques Dunkiさんが、1台ずつ楽器の特徴などを説明し、ピアノの制作された同時期に作曲されたピアノ曲を3台で弾き分けてコンサートが行いました。
チューリッヒかどこかので音楽院の先生だそうで、モダンピアノと同時に常に古いフォルテピアノにも興味がありずっと弾いているようで、今度チェリストのクリストフ・コワン氏とレコーデイングする予定だそうです。

ここまで状態の良い、修復後のコンサートで使用できるグランドピアノが集まるというのは大変な贅沢です。

左からPape Paris 1842年、真ん中Pleyel Paris 1839年、右Erard Paris 1850年
Pape Paris 1842年,
多くの人がPapeのグランドピアノを見るのが初めてということで、スクウェアピアノ(テーブルのような平たい長方形のピアノ)を多く生産していたPapeの貴重なグランドピアノです。
タッチもとても浅く、今のモダンピアノに比べると数ミリくらい軽いのではないでしょうか。
Pleyel Paris 1839年
ショパンが持っていた1846年pleyelのピアノと3年違いのモデルです。ショパンのピアノは7月イギリス旅行・コブコレクションのページよりご覧いただけます。
こちらは、今回全て企画したローザンヌ音楽院のフォルテピアノ科教授Pierre Goy氏。
彼自身10個近くのフォルテピアノのコレクションを持っているそうで、そのうちのPleyel3台を運びこみレクチャーコンサートが行われました。
左からPleyel 1855年 グランドピアノ、Pleyelテーブルピアノ1832年と1844年。Peyel3台も持っているなんて!なんて贅沢でしょう。そして1台ずつやはりそれぞれの違った音色とタッチで曲により聴き比べられ、大変面白かったです。
1曲は2台ピアノの曲が演奏され、同じPleyelの甘美な音色が混じり合い、なおかつそれぞれの違いを楽しめました。
3階の展示場には1部屋ずつ違った現代のフォルテピアノ製作家や、修復科の部屋になっていて、自由に出入りしてピアノを弾いたり、製作家と詳細など話すことができて、弾き比べをするのがとても興味深かったです。なかなか、ここまで多くの楽器が1つの場所に集まることがない為、貴重な機会です。
そうでなければ、ザルツブルクに住む製作家、ミラノの製作家、ベルギーの製作家・・・と楽器製作者の旅を数日かけてしなければいけないのと、記憶の中にある音とタッチを比べるのは中々大変なので。
こちらは別のOlivier fadini氏(パリ在住)が修復し終わったばかりのオリジナルPleyelのグランドピアノ。
面白かったのは、ショパンがパリに18年間在住していた間、良き友人、同じ作曲仲間として交流のあったカルク・ブレンナー(1785-1849年)が開発した指先だけを動かして練習するために発明されたカイロプラストという機械の図面の載っている古書から、Olivierが実際にその機会を作って日本人のピアニスト奥山 彩さんがデモンストレーションをしてくれました。
クレメンテイの氏でもあったカルクブレンナーは、もともとドイツ人ですがパリのコンセルバトワールに来て、ロマン派以前のピアニストとしてパリの楽壇で大変な人気と名声を持っていたそうです。
そして、まさにカルクブレンナーの活躍した時期はプレイエルのピアノが発展、改良された時期で、彼は生徒にできるだけ指を動かして鍛えるメソードを教えていたそうで、その為にこの木の練習用の道具を制作して生徒に売っていたそうです。
これが、練習様機械(木製)の図面の載った古書。
オリビエが実際にこの練習用機械を再現して、プレイエルのピアノに取り付け、彩さんが弾いてデモンストレーションをしてくれました。
腕の部分を木のバーに載せるので、できるだけ腕を動かさず、指の筋肉を鍛えるということだそうです。弾きにくい様ですが、どちらかというとチェンバロ的な指のみ動かす奏法に重点が置かれているのが面白いですね。
チェンバロはタッチが現代のピアノよりも遥かに軽い為、不必要に腕の重みや動きを加える必要が全くなく、逆に叩くと音がつぶれて響きません。
ロマン派のプレイエルのグランドピアノの頃からピアノも大きくなり鍵盤の重さも増え、ショパン以降ヴィルトゥオーゾな曲が盛んになり、段々体も使って弾く演奏法に変わっていったのかもしれませんが、ショパン自身もか病弱で痩せていた為、グランドピアノを弾く体力があまりなく、大きなコンサートホールよりも伯爵などのサロン(部屋)の少人数を対象に演奏したことを好んだそうです。
ショパンはプレイエルのグランドピアノをパリ自宅、またマヨルカ島(ジョルジュ・サンドと付き合っていた頃よく行った別荘)にはプレイエルのアップライト型のピア二ーノを持っており、有名な24のプレリュードなどの名曲を生み出しましたが、体力のない日はグランドピアノは疲れるのでピア二ーノを好んでいたと言われています。
Olivierの部屋に展示されていた修復されたオリジナルのpleyelピア二ーノ。手前にシューマンとクララシューマンの写真が飾ってある様に、写真に写っているクララが弾いているピアノとほぼ同じモデル。

ピアノの譜面台にある右側のデッサンを良く見ると、このピア二ーノと同じラインが描かれています。
ショパンの良い友達で今でもサンジェルマンにアトリエが博物館として残っている、画家ドラクロワ(1798–1863) が描いたショパンとジョルジュサンドの肖像画のデッサンに、このピア二ーノの猫足の部分が描かれており、ショパンがこのピア二ーノと同じモデルのピアノを持っていた事が推測されます。
ドラクロワ
ドラクロワが実際にこの後に描いた2人の油絵の肖像画は、いつ誰によって破られたかは謎のままだけれど、ショパンとドラクロワがその後別れたことからか、2枚の絵も別々になりショパンの肖像画はルーブル美術館に所蔵されている。
1838年。ショパン像。ルーブル美術家所蔵。

ジョルジュサンド像。コペンハーゲン、デンマーク美術館所蔵。左にピアノの部分が描かれている。これがPleyelのピア二ーノと推測される。
こうして、絵画や楽器と歴史の謎解き!?をするのは面白いですね。
段々と頭の中でそのショパンが生きていた頃のパリの社交やピアノ事情などがつながっていきます。そして何よりも素晴らしいというか感激してしまうのは、今でもドラクロワのアトリエやショパンが最後に住んでいたヴァンドーム広場にはアパートがあるということです。
ドラクロワの住んでいたアトリエ前の通り
去年までサンジェルマン近くに住んでいた方が、”今日アパートの横にあるプレートを見たら、この建物にジョルジュ・サンドが住んでいた”って書いてあったんです!”と言っていました。
それは、ビックリですよね。ということは、そこにドラクロワやショパンもカフェをしに遊びに来たかも?!・・・
なんて考えるとパリは歴史が今も街の中で共存しているのが日本人の私にはびっくりしてしまいます。
ドラクロワが住んでいたアトリエ。太陽の光ができるだけ入る様にお庭に面して大きな窓があります。
東京は残念ながら空襲などでほとんどが焼けてしまいましたが、ある日家の横を見たら徳川家が住んでいた・・・なんてことが分かったらそれはびっくりしますよね~~。

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