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claveciniste et pianofortiste

音 *le son*


今日は、数日前雨が降り、空気がきれいに洗い流された後だからか、
とてもきれいな青空が広がった。
9月のコンサートの準備に追われているが、以前のコンサートに来てい頂いた方がた、300人のメーリングリストを作り、印刷した手紙に、1人ずつ言葉を添えている。
日々少しずつ書いているが、今日は最高のお天気だったので、近所のリュクサンブール公園に行って書いていた。
これだけは、時間がなくても、きちんとやっておきたいと思うことだ。ご案内を出すにしても、オートマティックに印刷されたものだけでなく、きちんとその人に対しての言葉が添えてある方が、私は暖かい感じがする。
わざわざコンサートを聞きに足を運んで下さり、その時の自分の音楽を一緒に共感して貰えるということは、音楽をやる者に取って、とても重要な意味を持つことだからだ。
なぜなら*音*は、一瞬一瞬消えてしまう。そして、見えないし触れない。
唯一耳の中に、一瞬前に過ぎ去った余韻が残るだけだ。
しかし、その見えない*音*を追求する私達にとっては、その瞬間の色や輝き、イメージしている音をできるだけ表現しようと、日々試行錯誤している。
どんなに本番前に準備や練習をしても、舞台に上がり、そこに居る人々の空気を吸い、その空間の中で弾くと、普段とはやはり違う、何かが生まれる。
それは、時には予期もしない驚きであったり、何事もなくイメージ通り無事に終わることもある。しかし、演奏家も舞台に上がる時は、その一瞬先がどのようになるかなんて、100%分からない。
だからこそ、演奏家がその瞬間に何を感じ、どの様に*音*が生み出されるかというのを、現実に目の前で見る時、決してCDを家のソファに座って聞いて居る時とは違う、その場の緊張感を感じる。
そして、その瞬間に*その場*に居るということは、一種の証人なのだと思う。
余談だが、私はジャズのライブなどが大好きで、突然湧き上がって生まれた即興のメロディーがこの上なく音楽的であったり、全く想像も付かない世界へと連れて行ってくれる時、本当に心が高揚する。
そこには、計算されていない、その人の本能と潜在意識の中に眠っている、無意識の人間の素晴らしい能力を垣間見るような気がするからだ。
何でも、技術は磨けば高められるが、その後の、どこまでその人自身の世界を*音*を通して広げられるか。またどのように、精神と*音*とのバランスを取るかということの方が、よっぽど難しく大きな課題のような気がする。
音を通して、見たくない自分、嫌な自分、幼い自分、思い上がって失敗する自分、自分でも気が付いていない何かが見えたりする。勿論、ネガティブなことだけでなく、ポジティブなことも同様にあると思うが。
それはまるで、等身大の自分の鏡のようである。誰に何を言われるよりも、自分の演奏を自分で耳にして、未熟さに気が付く時、一番こたえる。
しかし、未熟な自分を知れば、それを変えていくことができる。知らなければ、知らぬが仏で、ずっとそのままなのかもしれない。
だから、何十年という月日を経て、常にもっと、もっと色々な音や表現ができたらと努力しても、100%今の自分に満足している音楽家なんてあまり居ないと思う。死ぬまで勉強なのではないか。
昨日は、何となく上手くいったと思っても、もう次の日には、その*音*はどこかへ行ってしまってたりする。あるいは、急に今まで出なかった音が、ふとした心の状態で、生まれたりする。
*音*は生き物のようだ。
そして、それらに執着することなく、今の自分、今の音、今の感じていることを、素直に音にしていくことが、大事なのではないかと思う。

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